おめめの歯形

自分の足跡を残すというより、必死に食らいついて歯形くらいしか残せない

前髪は切らない

「今季一番の暑さになるでしょう。」
洗濯機のゴウンゴウンと唸る音を聞きながら、
テレビに映ったお天気お姉さんの服を見て、今日こそはクローゼットの中の衣替えをしようと決意した。

 

「昨日、寝れなかったんだ」

「なんで?」

「バチっと夜中に目が覚めて、どうしようもないない不安に襲われて」

「不安?」

「そう、ない?たまにさ。どうしよーもない、わけわかんない感じ」

「うーん、昔はあったけど」

「そうゆう感じ!」

「でもそれ、バイトとかの身分で、俺、このままどーなっちゃうんだろう?みたいな時だよ。今は流石にないわ」

「えー、あ、そう?私はまだあるんだなぁ。どうしようもないさぁ、こう、、」

「大丈夫だよ」

「え?」

「どーにもなんないんだから、今の生活」

 

私にはなんの力もない、という烙印をサクッと押されたようだ。

 

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 

昨日の夕方のニュースが、ほぼ今朝のニュースで、そりゃ十何時間で世の中そんな大事件ばっか勃発しないよな、なんて思いながらテレビを消す。

洗濯物を干して、一階も二階もクイックルワイパーと掃除機をかけた。
少しのティータイムをとり、ガスレンジの掃除に取りかかる。
この調子だと、午前中には衣替えまでも終了しちゃうなぁ、なんて考えながら手を動かす。

 

「お兄さん、松井に似てる」

「松井?松井ってー、、ゴジラ?」

「うわっ、お兄さんふっるー、違う違う、そっちの松井じゃなくて、野球選手なのはおんなじなんだけど、最近結婚したさぁ」

「俺、野球、全然見ないんすよ」

「えー、松井って救世主だよ!今、松井いなかったらやばいもん」

 

私、知ってます。


美容室で、カラー剤が髪に浸透するまでの、あのマヌケなスタイルで、隣の女性に危うく声をかけるところだった。

 

「ねぇ、ほら、この子」


隣の女性が担当美容師にスマホの画面を見せている

 

「えぇー!似てなくないっすか?なぁ?」

「あー、どうでしょう?まぁ、、似ている、似ていないって、感性ですよね」


巻き込まれた若いアシスタントは、スタイリストと客に挟まれて困惑している。

 

「絶対、似てるって。でも、ほんと、松井いなきゃ終わってんだもん、今のチーム。松井、いいよ!お兄さん野球観てみて!」

 

似ていないと思います。

私、彼がプロになる前、甲子園の予選で彼の試合見たんです。

その時、隣にはてっちゃんがいました。

 

「松井くんがスゴイから見に行こう」

 

てっちゃんは松井くんの高校のOBでした。
野球が好きで、大好きで。
私たちのデートは、ほぼ球場といっても過言ではありませんでした。
私は野球よりも、てっちゃんが好きでした。

暑い暑い夏の日で、汗だくで、メイクなんてすっかり剥げ落ちた顔の私は、てっちゃんに嫌われたくないためだけに、あのベンチに座っていました。

 

それでも、素人の私でも、マウンドに立つ松井くんは凄みがあって、てっちゃんは彼に釘付けで

 

「絶対プロになる、絶対活躍する、絶対」
と興奮しながら何度も言っていました。

 

私はその時、ドラフトを祈るように見ているリビングにいるてっちゃんを、キッチンから眺めている私も、プロ入り初登板をビール片手にてっちゃんの隣で見ている私も全部想像できたし、現に私の左手にはティファニーが輝いていて、これからくる素敵なキラキラした日々以外、あり得ないと信じていました。

 

「お待たせしましたー!色チェックしますね。うん、いい感じです!シャンプーに入りますね」

 

松井くん、結婚したんだって、てっちゃん。

 

「流したりないところ、ございませんか?」

 

私も、結婚したんだよ、てっちゃん。

 

ガツン、と五徳が響く音がしてハッとする。
シンクの蛇口には、昨日髪を黒く染めた私が歪んで映る。

 

私は、きっと、幸せです。