おめめの歯形

自分の足跡を残すというより、必死に食らいついて歯形くらいしか残せない

カニクリームコロッケ

私は矢を打つのがすごく下手だ。
気づいたところで、今更弓を引く力なんて残っていないし、弓なんてもう、構えもしない。

同じように、矢を打つのが下手な人がいて、たまたまその人の打った矢を地面から引っこ抜いたら、結婚することになった。

そんな感じで、今年の冬で、結婚して4年になる。

 

交際期間ゼロで結婚したおかげか、結婚生活に夢も希望も好きも嫌いもない。

大好きにもならないし、大嫌いにもならない。年々、情というやつだけが膨れ上がっている。

 

夫は大手企業に勤めていて、ある程度の収入があり、私に仕事を辞めてもいいと言ってくれた。

30代前半、何がしたいのかもわからず、やみくもに働いていたので、お言葉に甘えて辞めることにした。

子供はいない。

毎日ダラダラしている。

 

人に言わせれば幸せだそうだ。

結婚、戸建、車、専業主婦。

優しい夫。

 

そうだと思う、自分でも。

私はきっと、幸せだ。

きっと。

 

それでも毎日、引け目を感じてしまう。

夫といえども他人である。

他人のお金で、私の人生が成り立っているように思える。

 

食費も友人たちとの交際費も、この耳にぶら下がるイヤリングも。

全て夫の稼いだお金だと思うと、ゾッとする時がある。

あぁ、私は夫がいなければ食事もできないし、映画も見に行けないし、化粧品や服も買えないのだな。

元々、雀の涙ほどしかない自分自身の貯金は、とうに底をついている。

 

夫の口癖は「お金を出す、買ってあげる」だが、

いざ海外旅行など必要な時には私に現金を持たせたがらない。

そうなのだ。夫は欲しいものを買ってくれるし、用途のわかる現金は惜しみなく渡すが、必要以上にもらえない。

 

そうなってくると、ますますこの生活が嫌になる。

やっぱり働くしかない。

 

数日前から求人サイトをチェックし、応募もしているが、

私はといえば高校を卒業後、職を転々としすぎた為、資格もなければ勤続経験もない。

30代前半にもなって、できることは多少の接客くらいだ。

 

どうにかなると思っていた。

自分には何かあると思っていた。

ラッキーな方だと思っていた。

やり甲斐のある仕事に就いていると思っていた。

好きな仕事でお金を稼いでいると思っていた。

好きな人と結婚すると思っていた。

 

愕然とする。

こんなはずじゃなかった。

 

やりたいことと、できることの差に追いつけない。

いらないプライド。

嫉妬や妬み。

受け入れられない色々なものたち。

足掻いてもどうしようもない現実。

それでも、きちんと、ちゃんと、諦めたものの方が格段に多いと思う。

 

今、リビングのソファで横になっている私は、誰なんだろう。

 

携帯が鳴る。

先日パートに応募した会社から書類選考を通らなかったというメールだった。

 

そうですよね、私、何もありませんもん。

わかります。ほんと。見る目ありますよ。

 

こんなこと、大したことじゃないのに、今、たった今、全世界の人から「不必要」の烙印を押された気がした。

 

誰かに言われた気がした。

君、価値あるの?

 

むくっと起きた私は、本当に誰なんだろう。

TVも音楽もつけないリビングは、閉鎖の象徴のようだ。

白い壁、緑のカーテン、お気に入りのアジアンテイストのランプシェードにTVボード。

あぁ、これもどれもそれも。

夫に買ってもらったんだっけ。

 

網戸にしてあるベランダの窓からは、時おり車のエンジン音。

「ママ?ママぁ?」

隣の家からは子供の声が聞こえる。

 

そうだ、私も子供を産まないと。

 

仕事を探して、パートで働いて、家事をしながら、子供を育てて。

 

「お邪魔しまぁす」

そうだ、こうやって子供が連れてきたお友達にも手作りのおやつを振る舞うんだ。

今日、何があったか聞いて、仲良く遊ぶように言って、おやつ出して、お友達にあんまり遅くならないうちに帰るんだよ、っていうんだ。

 

子供を産まないと。

 

そうしたら、必要とされる。

 

そうなのか、そうなればいいのか。

これは本当に、誰の人生なんだろう。

 

すみません、やっぱり私、一体誰なんでしょう。

 

時計に目をやる。

もう、15時だ。

夕食の買い物に出かけないと。

 

どこの誰だかわからない私は、台所に立つ。

冷蔵庫の中身をチェックする。

 

「カニクリームコロッケ」

 

また隣の家の子供かと思ったら、

 自分で声に出していた。

 

今日、朝から夫以外の人と会話をしていない。

ふいに、昨年死んだ祖母の事を思い出した。

祖母に会いたくなった。

 

出かけなきゃ。

 

「カニクリームコロッケ」

もう一度声に出したら、涙が溢れた。